武田勝頼、信長との戦いに敗れ死す(1582) 広島平和霊園 3月11日 月曜日 朝 ニュース 歴史 戦国 いちご 人生 お墓 人材 タイミング 2月 雪 噴火 浅間山 

  • 2019.03.11 Monday
  • 10:31

みなさんおはようございます。

 

 

 

今日あった出来事は・・・

 

 

 

武田勝頼、信長との戦いに敗れ死す(1582)

 

 

「本能寺は、いち(1)ご(5)ぱん(8)つ(2)」

 

 


そんな語呂合わせのため、1582年というのは「本能寺の変」という印象が強いですよね。

 

 

 

しかし、同じ年の春にはこれまた歴史に大きな影響を残した出来事がありました。

 

 

 

天正十年(1582年)3月11日は、天目山の戦いで武田勝頼が織田家に敗れ、戦国大名としての武田家が滅亡した日です。

 

 

「滅亡」というと、つい一族郎党が全滅してしまった――なんてイメージを持たれがちですが、実際にはそういう例は少なく、特に女性や家臣は生き延びてまた別の人生を送っていることがほとんどです。

 

 

 

誤解を恐れずに申しますと、武田家はそういった意味で典型的なモデルケースともいえます。

 

 


まずは滅亡までの流れをざっくり見ていきましょう。

 

 

織田・徳川に人材を崩され、衰退の道へ

 

 

偉大なるお館様・武田信玄が1573年に逝去。

 

 


勝頼が当主になった後、武田家は長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍にボロ負けし、衰退の道をたどります。

 

 

 

原因はいろいろな見方がありますが、最も大きな契機になったのは「高天神城の戦い」ではないでしょうか。

 

 


家康領の遠江国で孤立した高天神城(静岡県掛川市)の味方を見殺し同然にしてしまったのです。

 

 

 

本人が言ったかどうかはともかく「人は石垣、人は壕、情けは味方、仇は敵」と伝えられる信玄の子供として、これは大いに家中を揺るがしました(そもそも甲斐をまとめるのは信玄でも相当苦労したとの話も)。

 

 

 

こんな状況ですから、日頃から不満を持っていた家臣や親族も多く、これを見た織田信長と家康が「待ってました」とばかりに彼らへ「ウチに来れば優遇するよ」と働きかけたため、武田の人材はどんどん減っていってしまいます。

 

 

 

 

勝頼は人材不足を防備で補おうとして新たに城を築きました。

 

 

 

が、城はタダでは建ちません。

 

 

 


お金も物も人もかかります。

 

 

 


その負担を部下に強いたせいで、勝頼は余計に人心を失ってしまいました。

 

 

 

あがけばあがくほど事態が悪化していく――歴史においてはよくある話ですよね。

 

 

 

 

その状況で、信長はついに本格的な武田討伐の軍を起こします。

 

 

 

 

 

正親町天皇からもお墨付きをもらい、名実共に有利なのは圧倒的に織田家。

 

 


かねてからの同盟相手・徳川家ももちろん一緒になって攻めてきます。

 

 

 

木曽義昌に続き重鎮・穴山信君も寝返った!

 

 

 

さらにこのタイミングで、勝頼にとっては義弟(妹の夫)である木曾義昌という人物が織田に寝返ります。

 

 

 

織田方の美濃・飛騨との国境線である西信濃の木曽地方が裏切ったのですから、もちろん勝頼はブチ切れ。

 

 


義昌から預かっていた人質を殺し、さらに義昌を攻めようとしますが、あいにく2月の豪雪で進軍できません。

 

 

 

 

冷静に考えれば裏切り者の始末より織田・徳川への備えを優先すべきなんですよね。

 

 

 


あるいは後の交渉材料としてキープしておくべきだった。

 

 

 

 

その判断もできない&諫言する家臣すらいない、あるいは家臣の言うことも聞けない状態だったかもしれません。

 

 

 

 

さらには浅間山の噴火まで起こり、

 

 

 

 


家中の統制が取れなくなっていきます。

 

 

 

 

持明院所蔵の武田勝頼・夫人・信勝/Wikipediaより引用

 

 

 

そんな状態で攻められたら結果は火を見るより明らかでしょう。

 

 

 

 

各方面で連携を取りながら進撃してくる織田・徳川軍に対し、武田軍は連戦連敗。

 

 

 


駿河を任せていた重鎮・穴山信君(梅雪)も実は事前に寝返っており、まさに不幸のズンドコ状態に陥りました。

 

 

 

 

ゲームだったらフラグが乱立どころか、どう見てもルート確定済みです。

 

 

 

 

勝頼に冷遇されながら最後まで戦った諏訪頼豊

 

 

 

 

そんな感じで傍から見れば自ら滅亡に向かって爆走していったも同然な武田家も、やはり武士としての意地があるので、勝頼と最後まで残った家臣は戦い続けました。

 

 

 

その一人に、諏訪頼豊(よりとよ)という人がいます。

 

 

 


勝頼の母方の親戚ですが、日頃から勝頼に冷遇されていました。

 

 

 

そのため彼は自分の家臣に「この隙に諏訪家を再興しましょうよ!」と言われます。

 

 

 


それでも、勝頼と共に最後まで戦います。

 

 

 

 

戦隊物とかアニメの主人公だったらここで良いフラグが立つところですけども、残念ながら歴史の主役は勝頼ではなかったので焼け石に水も同然でした。

 

 

 

 

ちなみに頼豊をはじめとした勝頼の近縁に当たる人々とこの時点まで残っていた重臣達は、勝頼の自害よりも前に織田軍に捕まって処刑されています。

 

 

 

 

月岡芳年作の武田勝頼自害/Wikipediaより引用

月岡芳年作の武田勝頼自害/Wikipediaより引用

 

 

1417年の武田信満滅亡に続き、またも天目山で…

 

 

 

追い詰められた勝頼は、最後の最後まで寡兵ながらに頑強に抵抗します。

 

 

 

 

しかし、その行軍はもはや生き延びるためではなく、ふさわしい死に場所を求めるものになっていました。

 

 

 

 

辱められるよりは…と考えたのか。

 

 


妻子や侍女を含めた500人ほどの一行は、かつて一度武田家が滅びた山・天目山(厳密には天目山という山はなくその地区にあるお寺棲雲寺の山号で、木賊山=とくさやまが正式名称)へ向かいます。

 

 

 

一度目の滅亡は、1417年の武田信満。

 

 

 

普通そんな縁起の悪いところへは近寄らないでしょうが、本当に最期だと思ったからこそ、先祖と同じ死に場所を選んだのでしょうね。

 

 

 

しかし、天目山では地元の人たちが入山を拒否。

 

 

 


勝頼を支援したとあとで織田軍にバレると自分たちも大変なことになるから、見限られたのです。

 

 

 

そして3月11日。

 

 

 


勝頼は天目山(木賊山)の麓の田野というところで、織田軍の滝川一益隊に玉砕覚悟の最後の戦いを挑みます。

 

 

 

 

北条氏から来た妻は自害、子で正式には武田氏をついだ息子の武田信勝は壮絶な戦死。

 

 


勝頼は自害したとも乱戦で戦死したとも言われており、はっきりしていません。

 

 

 

ともかく意図した通り、先祖とだいたい同じ場所で二度目の滅亡を果たしたのでした。

 

 

↓↓↓お墓↓↓↓

 

勝頼と夫人のお墓/Wikipediaより引用

勝頼と夫人のお墓/photo by Sakaori Wikipediaより引用

 

足利義満、花の御所に移る(1378)  と足利義満のお墓  広島平和霊園  3月10日

  • 2019.03.10 Sunday
  • 09:33

みなさん。おはようございます。

 

 

 

本日はあいにくの雨です・・・

 

 

 

さて、今日は、3月10日(日曜日)です。

 

 

 

1378年3月10日にあった出来事は・・・

 

 

 

足利義満、花の御所に移る。

 

 

 

花の御所とは、足利義満が京都に建てた将軍家のお家。

 

 

 

王朝風の建築様式を取り入れた、そりゃ立派な御殿でした。

 

 

 

花の御所は1378年に建てられ、敷地の大きさは縦100メートル×横200メートルに及ぶ巨大な建物。

 

 

 

ちなみに、これは天皇の御所の2倍くらいの広さ!

 

 

 

じゃあ、どうしてこんなにバカでかいのを造ったのかと言うと…「見栄」です。

 

 

 

良いんです、見栄で…

 

 

 

これが、武士のプライドなんです。

 

 

 

室町時代に入ると、本格的に武家の力が強さを増してきます。

 

 

 

でも、伝統とか格式とか文化的なものは、イマイチお公家様には及ばない。

 

 

 

しかし「世の中はオレたちが回しているんだ」という自負から、負けじ根性を働かせて他所様の家よりでかい花の御所を建てたました。

 

 

 

庭園にはお花などをきれいに植えて、文字通り華やかな雰囲気に仕立て上げました。

 

 

 

「どうだい!将軍ってスゲーだろ」みたいな感じで。

 

 

武将っていう人種は、性格が体育会系なので「ご立派感」を出そうとすると、バカでかいとか、、キンキラキンとか、、そっちに行っちゃう。

 

 

ま、それはそれで良いんですが…

 

 

その当時の、武将っぽいゴージャス感を表した邸宅が「花の御所」というワケでした。

 

 

なんで花の御所?

 

 

花の御所って言うくらいだから、御所にはいろんな花が咲き乱れています。

 

 

 

これは義満自身が「花好き」という事と、家臣や大名の忠誠心を試す意味もありました。

 

 

 

 

御所にきれいなお花が咲いてるって、素敵じゃないですか?

 

 

 

誰も文句言いませんよね。

 

 

 

どんどん綺麗にしてほしい。

 

 

だからこそ、お花は人心掌握には好都合なのでした…

 

 

 

御所には将軍家に御用があって、日々いろんな人が訪ねてきます。

 

 

 

そしてそこは、お花の楽園なもんですから、花好きな人なら「私、こんなきれいなお花、知ってますよ」なんて事、教えてくれます。

 

 

 

すると「じゃあ、今度持ってきてくださいよ…御所に植えたいですから」みたいな話になりますよね。

 

 

 

実は、これが政治的に深い意味があるんです。

 

 

自分の好きな花があって、これを将軍が認めてくれて、御所できれいに咲いている。

 

 

そういうの、、ちょっとウレシイじゃないですか。

 

 

認められているみたいで、誇らしい気持ちになる。

 

 

 

 

それで、一度喜んでくれたら、またきれいなお花を持って行ってあげたい…と思います。

 

 

 

 

そんな交流を、諸大名や家臣とやってると「花ともだち」みたいになって、さらに互いに競って良いお花を持って行こうとします。

 

 

 

「○○さん、いつもお花ありがとう!みんな、素敵って褒めてたよ」

 

 

 

「いや〜それは、感激です。ところで、そこにある珍しい花は何ですか?」

 

 

「これは、△△さんが持ってきたヤツで・・・」

 

 

「ほほ〜、そいつは貴重ですね。それじゃ私も今度、新作を持ってきますよ」と。

 

 

 

 

競うって言っても、しょせんお花ですからホンワカしたものです。

 

 

 

ただ、そのお花の交流をしていると、知らず知らずに将軍への忠誠心が育ってしまう。

 

 

 

「誰よりも将軍に喜んでもらいたい、認めてもらいたい」みたいな感じで。

 

 

 

きれいに咲き乱れるお花には、そんな狙いもありました。

 

 

 

御所はどこにある?

 

 

 

花の御所は、京都の内裏(天皇の御所)の近くにありました。

 

 

 

 

(場所的には、現在の同志社大学室町キャンパスのあたり)

 

 

 

足利義満は、わざわざ天皇の御所の近くに巨大な御所を建てる。

 

 

 

しかも、内裏より大きいのを作って、北側に配置。

 

 

 

 

これは「北側から天皇を監視してますよ」という意味でもあります。

 

 

 

なんだか、すごく偉そうですよね?

 

 

 

 

でも、義満は金もってるし!権力はあるし!南北に分かれた天皇の系統を一つにまとめちゃうし!義満のお母さんの血筋には天皇の血が流れてる!

 

 

 

だから…くやしいけど、文句の付けようがない。

 

 

 

そして、内裏を上から見下ろすような位置に、花の御所を造りました。

 

 

 

花の御所があの時、あの場所にあったと言うことは…それだけ、足利義満の力が強大であったことを物語っています。

 

 

 

いつまで存在していたのか?

 

 

 

足利家の権力の象徴と言える、花の御所。

 

 

 

 

しかしその栄華も、これまた象徴的な出来事によって失われます。

 

 

 

応仁の乱で焼かれちゃったんですね。

 

 

 

この時の足利将軍は、8代目の足利義政なのですが…この義政の登場が、非常に時代の変化を感じさせます。

 

 

 

それまでの室町時代は、足利義満をシンボルとしたようなイケイケ、キラキラ、みたいなバブリー時代でした。

 

 

 

しかし、義政の頃になると幕府の力も衰え、シブいっていうか暗いって言うか…今までとは違った時代感に包まれます。

 

 

 

 

足利義政は、強すぎる幕府に反発する家臣たちによって作られた将軍。

 

 

 

だから、必然的に時代の流れも変わってしまいます。

 

 

 

力を弱めた幕府は、次第に統率力を失い…大名達に振り回された結果、応仁の乱が勃発します。

 

 

 

 

でその結果、花の御所は応仁の乱の戦火をくらって焼失

 

 

 

1476年のことでした。

 

 

 

って言うか、それ以前に花の御所は義政が大改造しちゃってます。

 

 

 

だから、その頃にはゴージャスな足利家の象徴としての役割は、終えていたのかも知れません。

 

 

 

↓↓↓↓ 足利義満 お墓 ↓↓↓↓

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クラーク博士、没。59歳

  • 2019.03.09 Saturday
  • 09:30

みなさんおはようございます。

 

今日は3月9日(土曜日)

 

 

最近、春が近づいて暖かくなったかと思いきや!普通に寒い今日この頃です・・・笑

 

 

さて、そんな今日ですが、クラーク博士、没。59歳

 

 

クラーク博士は、今や北海道のシンボルとも言える人物です。

 

 

クラークといえば、真っ先に思い浮かぶのが、「少年よ、大志を抱け」「ボーイズ・ビー・アンビシャス」。

 

 

これは、明治のはじめ、北海道に、新しい教育の根をおろしたアメリカ人、クラークが学生に贈った言葉です。

 

 

 

 

 

 

 

マサチューセッツ農科大学の学長に就任

 

 

 

 

クラークが学んだアマースト大学

ウィリアム・スミス・クラークは、アメリカ東部マサチューセッツ州の小さな村に医者の息子として生まれました。

 

 

1826年、今から170年以上も前のことです。

 

 

 

その頃のアメリカは、イギリスから独立して50年が経ち、新しい土地を求めてイギリスからやって来た大勢の人々によって開拓されていきました。

 

 

 

 

クラーク自身もイギリス人の勤勉・努力・宗教を大切にする精神を受け継ぐとともに、アメリカ開拓者の、冒険好きで、何事にも屈しない精神力と抜群の行動力とを合わせ、育ちました。

 

 

 

 

負けず嫌いの子供だったクラークは持ち前の努力で、勉強は一番、スポーツも一番、けんかをしても一番という、活発な少年でした。

 

 

 

高校をトップの成績で卒業した彼は、名門といわれるアマースト大学に進み、さらに25歳の時、自然科学の中心として知られていたドイツの大学に留学しました。

 

 

ここで博士号をとったクラークは、アメリカに帰ると人々の注目を集め、大変な歓迎を受け、母校アマースト大学の教授に任命されました。

 

 

それもそのはず、この大学で博士号を持っていたのは、26歳のクラークただ一人だったからです。

 

 

 

社会的に著名な学者という地位を手に入れ、毎日充実した日々を送っていたその頃、アメリカではひとつの法律が可決されました。

 

 

 

 

それは、その州が必要であれば、国の予算を使って、農業学校を建てることが出来るというものでした。

 

 

 

 

37歳になっていたクラークは、「開拓が今盛んに行われている、ここマサチューセッツにこそ農業の専門学校が必要だ」と考え、周りを説得し、ついに4年後、当時アメリカにまだ2つしかなかった農学校を、もうひとつ増やすことに成功したのです。

 

 

 

 

1867年、日本では新政府が幕府を倒し、明治維新という新しい国造りにとりかかった頃でした。

 

 

 

マサチューセッツ農科大学と名付けられたこの学校に、学長として選ばれたクラークは、学校が始まると学生達に次のように演説しました。

 

 

 

「私が皆さんに望むこと、それは皆さんがこの大学を卒業した後、アメリカの全ての農場で、どんな仕事でもすぐにこなせるようになってほしい。

 

 

そのために、在学中はここで学んだことを全て吸収してほしいということです」

 

 

 

彼は実際に授業の中で、農機具を使って作業する実地訓練という、新しい制度をとり入れました。

 

 

 

クラークにとって、自然は書物の上の文字だけでは表現しきれないものであり、生き生きと動いている自然こそ本物でした。

 

 

 

 

 

そしてそれをまるで実際に見ているように話すこと、それがクラークの授業でした。

 

 

 

 

このような彼の授業は学生達の反響を呼び、皆休むことなく彼の講義を受けました。

 

 

 

 

また、樹木や植物についても新しい実験を次々に行い、高い評価を受けるようになりました。

 

 

 

 

この評判は、海を越えて、遠い日本にも伝わることとなったのです。

 

 

 

札幌農学校の指導者として日本へ渡る

 

 

 

 

 

クラークを日本に招聘した北海道開拓長官・黒田清盛

明治初期の日本は、鎖国という200年もの長い眠りから覚め、周りの国々の動きに驚くと同時に、なんとかそれらの国々に追いつくために、海外からたくさんの教師や技師を招きました。

 

 

 

 

 

特に、近代技術の発展したアメリカから、その進んだ技術や制度をとり入れようと、明治政府は、北海道にアメリカ式農法をとり入れていたのです。

 

 

 

それを提案したのは、北海道開拓長官・黒田清盛でした。

 

 

 

 

北海道の首都として新しいまちづくりが進められていた札幌は、人口が2600人程度で、中心地の大通も、樹木や雑草が生い茂る状態でした。

 

 

 

 

 

そんな中、明治9年に将来の北海道開発の後継者や人材育成のため、東洋で最初といわれる高等農業教育機関である、札幌農学校が設立されました。

 

 

 

この札幌農学校は、後の北海道大学のことです。

 

 

 

 

その時模範とした農学校が、マサチューセッツ農科大学だったのです。

 

 

 

札幌農学校の指導者として黒田清盛から来日の要請を受けたクラークは、これに喜んで応じました。見知らぬ土地で、今まで考えてきた教育というものを、もう一度再現してみようと思ったのです。

 

 

 

 

 

はじめ黒田は、クラークに2年間の期間をお願いしましたが、こちらの学校の責任者でもある彼は、2年間も学校を空ける事はできません。

 

 

 

 

 

「よろしい。

 

 

 

では、他の人が2年でやることを、私は1年でやってみせます」

 

 

 

その力強い言葉に黒田は納得し、こうしてクラークは日本に向けて出発したのです。

 

 

 

 

明治9年、クラーク49歳の決心でした。

 

 

 

 

日本へ向かう船の中で、彼は同行した人々にこれからの目標を熱く語りました。

 

 

 

「私が日本に伝えるのはアメリカの進んだ技術ではありません。

 

 

 

技術を生み出すのは人間です。

 

 

人間が自然と共に生きていく中から技術が生まれ、機械が発明されました。

 

 

 

 

大切なのは自然と共に生きようとする精神、スピリットです。

 

 

 

それこそが開拓者魂、フロンティア・スピリットなのです。私はそのフロンティア・スピリットを日本へ伝えにいくのです」

 

 

 

明治9年6月、横浜に着いたクラークは黒田清盛と会いました。

 

 

 

黒田はクラークにこう語りました。

 

 

 

 

「わが新政府は、徳川幕府から新しく生まれ変わった政府です。

 

 

 

我々がまず行わなければならないのは、北海道の開拓です。

 

 

 

ここで近代農業をすすめるためには、札幌に農学校をつくらなければならないと考え、その指導者には、マサチューセッツ農科大学の学長であるあなたが最も適任だと私は考えました。

 

 

 

 

ぜひ、その豊かな経験を生かして、新しい学校の生徒育成に力を尽くしていただきたい」

 

 

 

7月、黒田と共に札幌は着いたクラークは、札幌農学校の開校式で、第一期生24人を前にこの一言を贈りました。

 

 

「ビー・ジェントルマン」

 

 

「ジェントルマンたる者は、定められた規則を厳重に守るものであるが、それは規則に縛られてやるのではなく、自己の良心に従って行動するべきものである」

 

 

 

とその当時の日本には画期的な、自由主義の教育方針を唱えたのです。

 

 

 

クラークはさっそく、学校の組織づくりにとりかかりました。

 

 

 

 

まず教育課程は4年間とすること、教育内容は、農学・物理など、西洋の発達した科学を取り入れる事、そして実技を最重点に置くことなどでした。

 

 

 

 

学生達は、午前は講義、午後は実験や農場での作業、そして夜は薄暗いランプの下でノートの整理という、超多忙な日課をこなしました。これは学生達にとって、決して楽なことではありませんでしたが、皆クラークの教育方針に従って、熱心に取り組みました。

 

 

 

 

第一期生24人の中には、佐藤昌介岡崎文吉らがいました。

 

 

 

 

クラークは教育の中で、学生達にたとえどんな労働でもそれに対する報酬を与えました。

 

 

1時間の労働に対し、5銭払うというものです。

 

 

侍の子はどんなに貧しくても、働いたり金をもらったりするのは卑しいことだと教えられていた学生達にとって、それは今までにない経験でした。

 

 

 

クラークは、彼らに働くことと、それから得る報酬の尊さを学ばせたのです。

 

 

 

 

そして、いつも学生達への思いやりも忘れてはいませんでした。

 

 

 

 

ある日、冬の教室の中で、寒そうに机に向かっている学生を見たクラークは、「君、顔が青くなっているよ」と微笑みかけると、その学生を外に連れ出し、取っ組み合いを始めたのです。

 

 

 

しばらくして、クラークは笑いながら言いました。

 

 

「ほら、暖かくなっただろう。君の顔も今は真っ赤だよ」

 

 

 

また、彼は学生達に対して、やさしさと同時に厳しさを持ってあたりました。

 

 

 

ただ、学生達に厳しい規則を守らせるには、自分自身もそのお手本とならなければならないと考えていました。

 

 

 

黒田の家に招かれたある日、酒をすすめられたクラークは、

 

「私は学生達と禁酒の約束をしました。

 

 

ですから、今晩はお酒をいただくことはできません」

 

 

と断りました。

 

 

「いや、学生達が本当に約束を守るかわからないですよ」

 

 

 

とさらにすすめる黒田にクラークは、

 

 

「学生達は私を信頼しています。

 

 

 

ですから私も、その信頼に応えてあげたいのです」

 

 

 

ときっぱりと答えました。

 

 

 

こんな彼と学生達の間に信頼関係が生まれるのに、時間はかかりませんでした。

 

 

 

どんなに厳しくつらい日課でも、クラークのもと、誰一人音を上げる者はいませんでした。

 

 

 

さらにクラークが心をこめて学生達に伝えたことは、聖書、キリストの教えでした。

 

 

長い間キリスト教が禁止されていた日本で、キリスト教の精神を教えることは、皆思いもよらぬことでした。

 

 

しかし聖書こそ、最良の道徳教育と考えていたクラークは、愛情込めてキリストの教えを説きました。

 

 

 

学生達はキリスト教に深く感銘を受け、その中には、熱心なクリスチャンとして後に有名になる内村鑑三がいました。

 

クラークは、このような忙しい毎日の中でも、家族への手紙を忘れませんでした。

 

 

 

「妻へ 農学校での仕事はとても楽

しく、私のほうから努力しなければならないことは何もありません。

 

 

学生達は、これ以上望めないほど善良で、熱心です。

 

 

 

そして、非常に礼儀正しく、私の指導に対してたいへん感謝してくれており、私は本当に幸せです」

 

 

ボーイズ・ビー・アンビシャス

 

 

学生達に、勉学だけでなく道徳や人としてのあり方など、計り知れない程の影響を与えたクラークが、来日して10ヶ月後の明治10年4月、いよいよ札幌を去らなければならない時がやって来ました。

 

 

その日の授業は全て取りやめ、教授や学生達全員が馬に乗り、シママップ(島松)まで見送りに来ました。

 

 

クラークは、ひとりひとりに力いっぱい握手をすると、「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と叫び、さらに言葉を続けました。

 

 

 

「not for money, or for selfish aggrandizement」

 

 

「少年よ、大志を抱け。それは、金銭や欲のためではなく、また、人よんで名声と言うむなしいもののためであってはならない。人間として当然備えていなければならぬ、あらゆることを成し遂げるために大志を持て」

 

 

 

そしてひらりと馬にまたがり、雪のまだ残る泥道を蹴って、林の中に走り去りました。

 

 

 

クラークはその後59歳でこの世を去りましたが、生涯を振り返った時、どんな仕事よりも満足し、印象に残っていたのは、札幌での8ヶ月間の仕事だったといいます。

 

 

彼の残した「ボーイズ・ビー・アンビシャス」は、札幌農学校のモットーとなり、いつの時代の、どの青年にも限りない夢と意欲を与えてきた、最大のスローガンとなりました。

 

 

クラークが打ち立てた教育理念は後継者たちに受け継がれ、その教育体制は、現在の北海道大学へとつながっているのです。

 

 

(出典:「ほっかいどう百年物語」中西出版

 

 

クラークの墓

 

 

↑↑↑ クラーク博士のお墓。

 

東大寺大仏殿の再建・・・

  • 2019.03.08 Friday
  • 09:28

みなさんおはようございます^^

 

 

 

今日は、3月8日(金曜日)

 

 

 

今日あった出来事は・・・

 

 

 

東大寺大仏殿の再建。大仏の開眼供養(1692)

 

 

 

東大寺大仏殿は二度焼失しています。

 

 

その度に再建された歴史が、東大寺大仏殿の中に展示されています。

 

 

 

鎌倉時代の東大寺大仏殿

鎌倉時代の東大寺大仏殿の模型。

 

 

東大寺大仏殿の建設は、奈良時代に行われています。

 

 

建物の建設は大仏が造られた後のことであり、中に安置される大仏が先に鋳造されました。

 

 

 

天平15年(743)に滋賀の紫香楽宮で廬舎那仏造立の詔が出され、天平勝宝元年(749)10月に東大寺の大仏が完成しています。その後、758年(天平宝字2年)に大仏殿が無事に竣工しました。

 

 

 

兵火で焼け落ちた東大寺大仏殿

 

歴史は下って源平の戦いの折、治承4年(1181)に平重衡の南都焼討に遭い、敢え無く大仏殿は焼失してしまいます。

 

 

その後、東大寺再興に尽力した重源の活躍により、文治元年(1185)に大仏開眼供養が行われ、5年後の建久元年(1190)には大仏殿が完成しました。

 

 

 

さらに建久6年(1195)に落慶法要が盛大に営まれ、建仁3年(1203)には再建事業が完成を見ます。

 

 

後白河上皇や源頼朝の列席の元、東大寺総供養が行われ、鎌倉時代の東大寺大仏殿として見事に復興を果たします。

 

 

 

 

 

鎌倉時代の東大寺大仏殿

鎌倉時代の大仏殿の模型。

 

 

 

大仏殿の中に毘盧遮那仏が垣間見えます。

 

 

 

東大寺の瓦寄進

東大寺の寄進瓦。

 

 

 

筆で願い事を書いて奉納します。

 

 

 

世界最大の木造建築物として知られる東大寺大仏殿。

 

 

 

これだけの建物ですから、屋根の上の瓦の重量も相当なものではないでしょうか。

 

 

 

屋根瓦を軽量化する取り組みも行われていたようですが、歴史学者の樋口清之氏の「梅干と日本刀」には、東大寺大仏殿が地震や台風によって倒壊しない理由が書かれています。

 

 

 

瓦の発想は ”うろこ” である。

 

 

 

元来、魚の鱗のことを ”かわら” といったくらいだが、中国ではこれを屋根にクギで固定する。

 

 

日本人はこれを泥で固定した。

 

 

泥では滑りやすいが、実は、この滑ることがねらいなのである。

 

 

 

この知恵は、地震や台風への対応である。

 

 

 

東大寺の模型

東大寺大仏殿に展示される模型。

 

 

 

創建当時にそびえていた東大寺七重塔もディスプレイされていますね。

 

 

 

 

東大寺大仏の光背

大仏様の後ろに回り、巨大な光背を仰ぎ見ます。

 

 

 

地震によって建物が一方に傾くと、傾いた方の瓦が滑り落ちます。

 

 

そうすると、今度は反対側が重くなって同じように傾き、もう一方の瓦も滑り落ちます。

 

 

こうして屋根の軽くなった建物は押しつぶされることがない。

 

 

泥で瓦を固定する日本の建築様式が大仏殿を支えているのかもしれません。

 

 

 

火事で焼失することはあっても、地震や台風では倒壊しない東大寺大仏殿。

 

 

 

その原因の一端を垣間見るような気が致します。

 

 

 

 

東大寺大仏殿と花

さらに時は下り、戦国時代の永禄10年(1567)に三好・松永の乱によって、東大寺大仏殿はまたもや焼失の憂き目を見ます。

 

 

 

 

この時には思うように再建事業がはかどらず、大仏の仏頭を銅板で覆うだけの簡単な修理にとどまります。

 

 

 

江戸時代の貞享元年(1684)になり、ようやく公慶上人の勧進で再び東大寺復興事業がスタートします。

 

 

 

 

元禄6(1693)年、公慶が将軍徳川綱吉とその母桂昌院に謁見したことをきっかけとして、東大寺復興は江戸幕府主導の国家的大事業となっていきます。

東大寺復興にも多大な功績を残していたのですね。

 

 

将軍家の協力を得ながらも、資金不足は解消せず、大仏殿の規模は鎌倉時代より大幅に縮小されることになります。

 

 

桁行11間あったものが、財政的な都合により7間になりました。

 

 

 

しかしながら、奥行は創建当時と変わらず、世界屈指の木造建築物であることに変わりはありません。

 

 

 

 

 

江戸時代の東大寺大仏殿

江戸時代の東大寺大仏殿。

 

 

 

この模型こそが、現在の大仏殿そのものでもあります。

 

 

 

少々小ぶりにはなりましたが、ワールドワイドに感動を呼び起こす建築物として、今もなお数多くの観光客を集めています。

 

 

 

 

 

東大寺大仏

東大寺の大仏として知られる毘盧遮那仏。

 

 

長い歴史の中で、東大寺復興に力を尽くした数多くの人がいたことを忘れてはなりません。

 

 

これからも日本はおろか、世界中の人々に感動を与える東大寺大仏殿であり続けてほしいと思います。

 

引用文献: https://narayado.info/nara/daibutsuden.html

 

日本初の万国博覧会・・・

  • 2019.03.05 Tuesday
  • 09:40

みなさんおはようございます。

 

 

 

今日は3月5日火曜日です。

 

 

 

 

今日あった出来事は・・・

 

 

 

 

日本初の万国博覧会、湯島で開催

 

 

 

戦後復興を経て、日本の次代の夢がひらく

 

1970年、日本万国博覧会が開かれた。

 

1970年、日本では1964年の東京オリンピックに続いて、戦後復興著しい日本を世界に認知させる大イベントが開かれた。

 

 

それが「日本万国博覧会」の開催だった。

 

 

通称、大阪万博といわれ、その入場者数は6400万人をこえた。

 

 

 

 当時の日本は高度経済成長の真っただ中にあり、いわばその頂点として日本万国博覧会は開かれた。

 

 

いま振り返れば、その開催時期はすでに高度経済成長の後半にあたり、日本の次代への希望と夢を象徴していた。

 

 

 

その後、1973年の第一次オイルショックを機に日本は混迷の中に突入していく。

 

 

 

日本万国博覧会は、ある意味では日本が最後の繁栄を謳歌した盛大なお祭りだったといえる。

 

 

 

しかし、そのあと1980年代にもう一度頂点を迎えたが…。

 

 

1970年は、いろいろな意味で境目となった年であった。

 

 

 

60年代に吹き荒れた学生運動の嵐は、なんら成果もなく一気に沈静化していった。

 

 

 

そのなかで「よど号ハイジャック事件」が起きて、一般市民は学生運動や左翼から遠ざかっていく。

 

 

 

生活シーンでは、フランチャイズ・チェーンの時代が幕を開けた、ケンタッキーやマクドナルドが一号店をオープンさせた。

 

 

 

銀座や新宿などで「歩行者天国」が開始された。そして、ボーリングが大ブームとなっていた。

 

 

 

 

ファッションでは、ミニスカートとミディ、マキシとの端境期であった。

 

やがて、それらにパンツルックも加わってくる。

 

 

 

そして70年代は、60年代のミニスカート全盛から、ロング(服も髪も)、重ね着というスタイルに変化していく。

 

 

 

意識や価値観では、学生の中で「三無主義」や「しらける」という動向が顕著となっていた。

 

 

 

いずれも、60年代学生運動の敗北感が影響していた。

 

 

日本万国博覧会は、そのような背景の中で盛大に開かれた。

 

 

 

それはまるで高度経済成長の徒花として、最後に大輪の花を咲かせるかのようだった。

 

 

 

祭りのあとには、それまでとは違う静寂が訪れる、万博のあと日本には経済成長の終焉が待っていた。

 

 

 

1970年日本万国博覧会は、日本が経済成長の最中で未来に夢や希望がもてた、そんな良き時代の盛大な祭り事として、後世に語り次がれていくに違いない。

 


1970年に行われた日本万国博覧会は日本人の2人に1人が訪れたという史上最大のEXPOだった。

 

 

 

 

その真実に迫る。
EXPO'70 驚愕! 大阪万国博覧会のすべて

時代背景/1970年(昭和45年)

 

<主な出来事>
・日本万国博覧会(大阪万博)開幕(入場者6,421万 8,770人)
・日本航空機よど号ハイジャック事件発生
・ボーリング・ブーム
・ケンタッキー、マクドナルド日本第1号店がオープン
・日本初の歩行者天国が銀座、新宿、池袋、浅草で実施
・アポロ13号打ち上げ

<ファッショントレンド>
・レイヤードファッション流行(重ね着)
・ミディ、マキシ流行
・スケスケルック
・ノーブラ旋風
・トンボめがね流行
・ロングヘアー流行
・デザイナーブランドもの全盛

<新商品・流行語・その他>
・自動車 セリカ(トヨタ自動車工業)
・ミニカー トミカ(トミー)
・男性化粧品 マンダム(丹頂)
・シャンプー メリット(花王)
・缶コーヒー(上島珈琲)

・ヴィーナス(ショッキングブルー、70年の大ヒット曲)

 

 

・ウーマン・リブ
・三無主義(無気力、無関心、無責任のことで、当時の若者を表わす言葉)
・しらける(学園紛争が沈静化すると、若者たちの間に、何をやっても熱中できない「しらけムード」が広がった)
・人類の進歩と調和(日本万国博覧会のテーマ)
・モーレツからビューティフルへ(CM)

EXPO’70日本万国博覧会 1970年

 

人類の進歩と調和

日本万国博覧会は、1970年3月〜同年9月まで大阪府吹田市の千里丘陵で開催された。

 

 

 

博覧会へは、77カ国が参加し戦後復興が著しい日本の面目躍如の場となった。

 

 

 

入場者総数はのべ6,421万8,770人となり、これまでで最大となった。

 

 

 

<日本万国博覧会の概要>

 


テーマ:「人類の進歩と調和」(Progress and Harmony for Mankind)

 


開催期間:1970年3月15日〜9月13日(183日間)(開会式は3月14日)

 


会場運営:財団法人日本万国博覧会協会

 


会場面積:330ha

 


総入場者数:6,421万8,770人(うち外国人約170万人)

 


目標入場者数:3,000万人(その後5,000万人に上方修正)

 


参加国数:77カ国4国際機関

 


売上金額:入場券/約350億円 食堂・売店関係/約405億円

 


当時のレート:1949〜1971年:1米ドル=360円(固定相場制)

 

 

 


万博会場全体/空撮


引用:http://jpninfo.com/wp-content/uploads/2015/05/osaka-banpaku-park-1.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 


会場案内図
引用:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/61K3Q7N1KHL._SX258_BO1,204,203,200_.jpg

 財団法人日本万国博覧会協会の会長理事は石坂泰三、事務総長理事は初代が新井真一(のちに鈴木俊一に交代している)。

 会場の総合建築プロデューサーには、丹下健三が就任した。

 

 

丹下は、1964年の東京オリンピックで代々木屋内競技場などを設計し、国内外で大きな評判を獲得していた。

 

 

そして、万国博覧会では総合プロデューサーとして、会場全体を統括し、メタボリズムの概念を適応して会場に調和をもたらした。

 

 

 

メタボリズムとは

 1959年に黒川紀章や菊竹清訓ら日本の若手建築家・都市計画家グループが開始した建築運動。新陳代謝(メタボリズム)からグループの名をとり、社会の変化や人口の成長に合わせて有機的に成長する都市や建築を提案した。
博覧会のシンボルマーク

 


シンボルマーク
引用:http://livedoor.blogimg.jp/toua2chdqn/imgs/8/9/89a2cb23.jpg

 

 

 

桜をモチーフにしたデザインが採用された。

 

 

 

真ん中の丸は日本を表し、その周りの5つの花びらは世界の5大陸を表している。

 

 

 

とてもシンプルで、かつ意味性が明確という、優れたデザイン表現となっている。デザインは大高猛。

 

 

テーマ館と太陽の塔

 

 


万博のシンボル/太陽の塔

 


引用:http://pds2.exblog.jp/pds/1/200702/27/36/e0083036_064329.jpg

 

 

 

 博覧会のテーマ館は、丹下健三が設計している。

 

 

テーマ館の一部である「お祭り広場」には、銀色のトラスで構築された大屋根が覆っていた。

 

 

その大屋根の一部を突き破るようにそびえ建っていたのが、シンボル「太陽の塔」であった。

 

 

 

 太陽の塔は、岡本太郎によって企画・制作されたものだ。

 

 

 

塔の高さ=70m、基底部=直径20m、腕の長さ=25m。

 

 

 

未来を表す上部の黄金の顔(直径10.6m、目の直径2m)、現在を表す正面胴体部の太陽の顔(直径12m)、過去を表す背面に描かれた黒い太陽(直径8m)の3つの顔を持っている。

 

 

 

 

太陽の塔/内部構造

太陽の塔の内部は、「過去・現在・未来」をそれぞれテーマにした造形物が展示された空間になっていた。
太陽の塔の内部にある高さ45mの「生命の樹」は、生命を支えるエネルギーを象徴し、未来に向かう生命力の強さを表現したそうだ。

地下ー過去…根源の世界 – 生命の神秘
地上ー現在…調和の世界 – 現代のエネルギー
空中ー未来…進歩の世界 – 分化と統合(組織と情報)

 

 

ちなみに、当時岡本太郎は、博覧会のテーマ「人類の進歩と調和」に異を唱えて、それを覆すような意味で「太陽の塔」を70メートルという高さにしたそうだ。

 

 

したがって、すでに設計されていた大屋根に「穴を開けろ」ということだった。

 

 

それを訊いた丹下とスタッフたちは当然反発したが、最終的には丹下の判断で太陽の塔は建てられた。

 

 

 

丹下健三の冷静な判断が「太陽の塔」を生かしたといえる。

 

 

現在、塔内部は公開されていないようだ。

 

 

一時期は公開されていたが、その後訊くところでは、耐震基準を満たしておらず、修復および強化する工事が追加でされているとか。

 

 

たしかではないが…。

 

 

 

とにかく再公開が待たれる。

 

 

 


太陽の塔/構造図
引用:http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/c8/7755a8c3bd02caae96cdd308b99688b1.jpg

 

 

 

 

 

 


太陽の塔/内部造形
引用:http://batakuri-krb.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2015/10/29/54bdfdef962ffb1d22e19d6e8f2b69d2862.jpg

 

 

 

 

EXPO’70日本万国博覧会/施設会場(一部)

 

いずれのパビリオンも一種独特の未来感に満ちている。

 

 

 

施設の設計概念は、丹下健三が主導し、博覧会が終了後は無に帰すという概念が取り入れられたそうだ。

 

 

 

要するに解体を考慮して設計されていた、と考えられる。

 

 

 

 

 

 

 

 


会場風景/右端はアメリカ館か、テーマ館と大屋根から突き出た太陽の塔が見える。


引用:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/71/Osaka_Expo%2770_Korean_Pavilion.jpg

 

 


会場風景/みどり館、古河パビリオン、電力館。右端は空中ビュッフェ。
引用:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e9/Furukawa_Pavilion.jpg

 

 

 

 

 

 


会場風景/ガスパビリオン
ガスパビリオンは、なんだか奇妙な形状ながらキュートなデザインだ


引用:https://flavorwire.files.wordpress.com/2013/01/1291230996-gas-pavilion.jpeg

 

 

 

 

 

 

 

 


会場風景/電力館(手前)と古河パビリオン(奥の塔)
引用:http://1970-photo-world.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_aee/1970-photo-world/img090-88.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 


会場風景/東芝IHIグループパビリオン 
建築家・黒川記章のデザイン、三角錐のテトラ・ユニット1,476個を溶接して赤いドーム本体の周りを囲っている。

 


引用:https://static.retrip.jp/article/10879/images/1087957483983-16c1-44fa-9e43-0d2c95875a3e_m.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 


会場風景/スイス館


これは超絶に格好がいい。外観だけで非日常感が満喫できそうだ。展示品は平屋の別棟にあるのだろうか。


引用:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Switzerland_Pavilion.jpg

 

施設内の様子、コンパニオン制服、その他

 

 

 

それぞれのパビリオンで展示紹介されたモノやサービスのなかで、その後実現し広く普及したものが多くあった。

 

 

 

以下に掲載したモノやサービスは、博覧会で紹介されて、その後開発が推進されて世に出たといわれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちなみに、リニアモーターカー(日本館)、電気自動車(ダイハツ)なども当時すでに展示紹介されていたそうだ。

 

 

 

 

温水洗浄便座(ガス館)


動く歩道


エアドーム(アメリカ館、富士グループパビリオン)


ワイヤレスフォン(現在の携帯電話、電卓の機能まですでに内蔵されていた。電気通信館。)


コンピュータ・ハンド・ゲーム(古河グループパビリオン)(人間の声でクレーンを操る大型のクレーンゲーム機。1985年からUFOキャッチャーという商品名で発売され、ゲームセンターなどを中心に全国で普及した。)

 


アストロラマ(みどり館)(360度全天周スクリーン映像)

 


テレビ電話(第三世代携帯電話でほぼ普及した)

 


ローカル・エリア・ネットワーク(LAN)

 


モノレール(アルウェーグ式を改良した日本跨座式が会場内にて初めて運用された)

 


サインシステム(ピクトグラムと共同運用した最初のもの)

 


電波時計、その他

 

 


施設内の様子

 


引用:https://pbs.twimg.com/media/C7GDbHXVoAAA91A.jpg

 

 

 

 


施設内の様子
引用:https://pbs.twimg.com/media/C7GDbHXV4AA8BiY.jpg

 

 

 

 

 

 

 


万国博の制服
ミニスカートが中心のようだが、パンタロンもすこし混じっている。ミニスカートもあくまで上品、かつ清楚な趣にあるように感じる。
引用:https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/91mjvBlMzbL.jpg

 

 

 

 

 

 


万国博の制服/この当時は、ブーツが流行っていたんだね。
引用:http://www.lennus.com/blog/archives/2009images/expo70_001.jpg

 

 

 

 

 


万博会場を背景にしたファッション写真


70年代の幕開けを感じるファッションである。じつに色合いが派手である、また全体的にまだ60年代の雰囲気が微かに漂っているようだ。

 


引用:https://pbs.twimg.com/media/CvqbTNGVIAA4LyU.jpg

 

 

 

 

 

 

藤原頼通・・・・

  • 2019.03.04 Monday
  • 09:17

みなさんおはようございます。

 

 

 

今日あったできごとは・・・

 

 

 

藤原頼通が宇治の平等院鳳凰堂を完成(1053)

 

 

藤原頼通ってどんな人?平等院鳳凰堂や作った理由も解説!

 

平安時代

 

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藤原頼通は992年に、藤原氏の全盛期を築き上げた父、藤原道長の長男として生まれました。

 

 

 

当時の道長は自分の娘を天皇の妃にし、生まれた皇子が天皇になったとき、摂政や関白として天皇の政治を助ける「摂関政治」で権力を握っていました。

 

 

 

1017年、頼通は26歳のとき、道長から摂政の職を譲られ、後一条天皇の摂政として権力を継承します。

 

 

二年後には関白となりましたが、引退した道長は1027年に亡くなるまで朝廷内で影響力を持ち続けます。

1036年、後一条天皇が亡くなり、弟の後朱雀天皇が即位。

 

 

自分も父・道長にならって娘を天皇に嫁がせよう…と、いきたいところですが、じつはこの時、頼通には天皇に嫁がせることのできる娘はいませんでした。

 

 

苦肉の策を講じ、妻の妹で皇族の嫄子(げんし)を養女に迎え、後朱雀天皇の妃にします。

 

 

 

しかし、源子は皇子を生むことはありませんでした。

 

 


1045年、後朱雀天皇が亡くなると、あとを継いだのは後冷泉天皇。

 

 

 

後朱雀天皇と道長の六女・嬉子(きし)との間に生まれた皇子です。

 

 

 

また、藤原氏とは外戚関係(母方が藤原氏出身であること)にない尊仁親王が皇太子となります。

 

 

 

1050年、頼通は一人娘の寛子(かんし)を後冷泉天皇に嫁がせますが、ついに子には恵まれませんでした。

 



天皇に嫁いだ自分の娘が皇子を生み、その子が天皇になること」が摂関政治で権力を握る絶対的な条件です。

 

 

 

 

頼通はその条件をクリアすることができなかったのです。

 



頼通が父・道長の別荘を寺院に改めたのは1052年のこと。

 

 

平等院鳳凰堂はどんな建物?当時は別の名前だった?

 


藤原頼通と言えば、父、道長と共に藤原氏の全盛期を築いた事で知られますが、これとは別に世界遺産にもなっている平等院鳳凰堂を作った事でも知られています。

 


平等院鳳凰堂はもともと、998年に藤原道長が建てた「宇治殿」と呼ばれる別荘でした。

 

 

1052年、頼通は別荘を寺院に改修し「平等院」とします。

 

 

そして翌年、阿弥陀如来像を安置するために阿弥陀堂を建立します。この阿弥陀堂が、江戸時代になってから「鳳凰堂」と呼ばれるようになったのです。



つまり当時は、「平等院鳳凰堂」という呼称は存在しなかったという事です。

 

 

 

頼通は阿弥陀如来のいる極楽浄土の世界を表現するためにこのお堂を建てましたが、その外観が伝説上の鳥「鳳凰」が翼を大きく広げたような様子だったので、このように呼ばれるようになったのです。

 

 

 

ちなみに江戸時代までこの建物は、単に「阿弥陀堂」または「御堂」と呼ばれていました。

 

 

 

 

 

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※参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/平等院


この鳳凰堂は池の中にある島の上に建てられており、建築物の前に庭と池が広がっています。

 

 


お堂の中心となる中堂には阿弥陀如来像が安置され、建物内には極楽浄土を表現した絵や装飾が施されています。

 

 

 

また、鳳凰堂の外観や池、庭園も建物内と同じく極楽浄土を体現したものです。

 

 

 

つまりこの鳳凰堂は、阿弥陀如来や極楽浄土を具体的にイメージするための場所だったという事です。

 

 

 

藤原頼通が鳳凰堂を作った理由について。

末法思想とは?


では、なぜ藤原頼通はこの鳳凰堂を作ったのでしょうか。

 

 

 

その理由を解くカギは、頼通が道長の別荘を寺院に改修した1052年という年にあります。

 

 


平安時代の後半に大ブームになった考えに「末法思想」というものがあります。

 

 

末法思想とは、釈迦が死んで2000年後にその教えが衰え、世の中が乱れる「末法の時代」が始まるという当時流行した考え方です。

 

 

 

そしてこの1052年こそ、この末法の時代が始まる年とされ、人々は不安を募らせていました。

 

 



末法思想にビクビクしていたのは頼通ら貴族も同じで、その多くは自らが極楽浄土へ行くために阿弥陀如来像を安置するための建物を作っていました。

 

 

 

その背景にあったのは源信という僧が著した『往生要集』という仏教書です。

 

 



源信はこの中で、「浄土教の修行をすれば、西方にある極楽浄土に生まれ変わる事ができる」と説き、具体的な修行として、念仏を唱えること、極楽浄土での生まれ変わりを願い、その世界をイメージすることを挙げています。

 

 

 

頼通はその教えを実践し、極楽浄土をイメージする練習をするために、阿弥陀堂=鳳凰堂を作ったのです。

 

 

今回のまとめ

 


藤原頼通がどんな人だったのか、平等院鳳凰堂がどのような建物なのかを中心に、頼通が鳳凰堂を作った理由についてもご紹介しました。

 

 


藤原氏による摂関政治は、この頼通の代でその全盛期を終えます。

 

 

 

その後も朝廷に影響力を及ぼした事は変わりはありませんが、地方では武士が台頭し、治安も乱れるようになります。

 



こうした世の乱れによって多くの人に末法思想が受け入れられ、貴族も庶民も極楽浄土での生まれ変わりを願うようになった背景と言えるでしょう。

 

 

↓↓↓↓↓お墓です。

 

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引用文献:日本史はくぶつかん

 

 

水戸藩・薩摩藩の連合襲撃隊が井伊直弼を暗殺(桜田門外の変)

  • 2019.03.03 Sunday
  • 09:30

みなさんおはようございます。

 

 

今日ある出来事は、「上巳」です^^

 

 

 

 

桜
 

 


桃の節句は五節句でもある「上巳の節句」とも呼ばれます。

 

 


この「上巳」というのは3月上旬の巳の日を指し、節句は季節の変わり目や節目という意味が込められており、節句ごとに厄払いをする風習がありました。

 



そのため元々、上巳の節句では紙、草、藁等を使った人形(ひとがた)を作り自分の厄を移して川に流すことで、節目の厄払いをしてきました。

 

 


また日本での旧暦の3月3日の時期には桃の花が咲く頃でもありました。

 

 


桃は中国では邪気を祓うとされ、日本でも魔除けの木とされていたため、


桃の花が咲く頃=「上巳の節句」=「(連想しやすい)桃の節句」
 

と呼ばれるようになったと言われています。

 

 

 


確かに「上巳」と聞くと貴族の言葉のようですが「桃」と聞くと連想されやすいですよね。

 

 

 

 

 

初節句について

 

 

 

初節句
 

初節句とは子供が産まれて初めて迎える節句の事を言います。

 



女の子は「桃の節句(3月3日)」、男の子は「端午の節句(5月5日)」を産まれて初めて迎える時の事です。

 

 

 


初めての節句を迎える事もあり、子供の健やかな成長を願うイベントなので昔は家族と双方の祖父母、お祝いを頂いた親戚、友人を招いて盛大にお祝いをしていました。

 

 


最近では身内のみでのお祝いも増えてきています。

 

2月生まれの女の子は翌年に回すことも

 

 

 

また2月産まれの女の子は生後間もない事もあるので翌年に初節句のお祝いをする場合もあります。

 

 


厳密な決まりはないので赤ちゃんの成長を見ながら家族で相談をしてお祝いの時期を決めるのが1番良いですね。



 

ひな人形のルーツは平安時代

 

 

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この「桃の節句」はひな祭りでもあるので定番の雛人形を飾りますが雛人形のルーツは古く平安時代です。

 



当時の貴族の子供達には「ひいな遊び」という紙人形での遊びが流行りでした。

 



「ひいな遊び」というのは現代で言うお人形を使ったおままごとのような遊びです。

 

 


このひいな遊びで使われている紙の人形と、厄払いの人形がものが「流し雛」として川に流されるようになりました。

 



この「流し雛」が雛人形の始まりと言われ、より立派な流し雛を作るようになると川へ流すのを止めて飾るようになったと言われています。

 

 



現代の東京でもこの「流し雛」は隅田川で毎年3月上旬に行われています。

 



 

ひな人形の飾り付けの準備する時期,片付ける時期

 

 

 

ひな人形の飾り付け
 

飾り付けの時期

 

 

厳密に飾り付けをしないといけない日取りに決まりがあるわけではありません。

 

 



一般的にはひな人形を飾る時期は2月中旬にかけてが良いと言われています。

 



イメージとしては節分の豆まきが終わった後に飾り付けをすると覚えておくと良いと思います。

 

 


また遅くなっても桃の節句の1週間前までには飾り付けをしましょう。

 

 

片付ける時期

 

 

桃の節句が終わった時に場所も取るので飾り付けを片付ける場合も多いと思います。

 

 


ただ折角、綺麗に飾ったひな人形ですからもう少し、あと数日、といった風に片付ける時期が遅くなる時もあります。

 



そのようなときでもおおよそ2週間を目安に片付けるのが良いです。また片付ける日の天気は気にかけましょう。

 



 

ひな人形の大敵は湿気

 

 

 

ひな人形に使用している生地にとっては湿気が大敵です。

 

 

 

 

片付ける時にジメジメした日にしまうと湿気が人形に残したままになります。

 

 



1年間大切にしまっていても翌年にカビ、シミがあってはショックですよね。

 

 

 


極力、天気が良い日にあたったらその日のうちに片付けるのが無難でしょう。

 



 

 

 

桃の節句の料理の意味

 

 

 

桃の節句の時に食べる料理、食材にもそれぞれ縁起を担ぐ意味が実はあります。

 

 


代表的なのは下記です。



 


【食材】
まめ:健康でまめに働ける
えび:長生きが出来る
はまぐり:一生涯同じ人と添い遂げられる
はす(れんこん):見通しがきく
 

 

はまぐりのお吸い物

 

 

 

hamaguri
 

 

 


はまぐりには「一生涯同じ人と添い遂げられる」と意味合いがあります。

 



はまぐりの貝殻は対になっている貝殻でないと合いません。

 

 


そのため一生一人の人と添い遂げられるようにとされる縁起を担いでいます。

 

 

ちらし寿司

 

 

 

桃の節句の料理
 

ちらし寿司は色鮮やかな食材を使うことでお祝いの席に相応しい料理とされています。

 

 


またえび、まめ、はす等も一緒の色合いも良いため桃の節句の定番料理になっています。

 



 

菱餅(ひしもち)

 

 

 

hishimochi
 

 



紅(ピンク)、白、緑の3色の餅をひし形にして重ねた餅です。

 



3色にはいくつかの説があり、
白は「清浄」、緑は「健康や長寿」、紅(ピンク)は「魔除け」や「雪(白)が溶けて大地に草が芽生えて桃の花が咲く」など

 

 


色合いや見た目で色々と説があります。



 

 

お祝いの準備、お返しの相場について

 

 

 

 

家族
 


桃の節句では定番の雛人形を祖父母から送られる事がありますよね。

 

 


ただ最近では核家族が進んでいる事もありマンションやアパートだと豪華な七段

飾りの雛人形を送られても飾るスペースが無かったり、毎回収納をするのに大変な思いをするという問題があります。

 

 

 



そのため最近ではひな壇に雛人形を収納出来るタイプやマンション住まい向けの雛人形なんかもあります。

 

 

 

お祝い金の相場は親族だと1万から2万円

 

 

お祝いの金額としては雛人形を贈ることを除くと親戚が10,000〜20,000円前後、

 

 


友人知人は5,000〜10,000円が一般的です。

 

初節句のお返しは一般的には不要です

 

 

 

また一般的に初節句のお祝いにお返しは不要とされ祖父母、親戚からお祝いを貰った時は、お祝いの席に招待をするケースが多いです。

 

 


遠方で招待するのが難しい時にお返しする事はあるようです。

 



友人知人はお祝いの席に呼ばないので「内祝い」として貰った金額の1/2〜1/3前後で品物を3月中に贈るようにしましょう。

 

 

 


のしには赤ちゃんの名前を書いて蝶結びの水引にしましょう。

 



 

 

まとめ

 

 

 

「桃の節句」を過ごす時には昔から続いている親戚、祖父母、両親の想いを知っていると普段と違った形で家族と良い時間を過ごせますし特に初節句は思い出になる事は間違いありません。

 

 

 



女の子が産まれると明るく元気に幸せに過ごして欲しい両親の願いはいつの時代も変わりませんね。

 

 

 

 

井伊直弼の墓

 

 

 

↑↑井伊直弼のお墓

 

 

 

 

 

引用文献:http://kisetsumimiyori.com/momosekku/

遠山金四郎景元遠山の金さん・・・

  • 2019.03.02 Saturday
  • 09:19

みなさんおはようございます。

 

 

 

今日は3月2日土曜日です!

 

 

 

今日あった出来事は・・・

 

 

遠山金四郎景元(遠山の金さん)、江戸北町奉行となる(1840)

 

概要

 

寛政5年8月23日(新暦では1793年9月27日)、後の長崎奉行・遠山景晋と、榊原忠寛の娘(名は不明)の間に生まれる。

 

 

幼名は通之進。

 


代名詞でもある北町奉行に就任したのは四十路に突入後の天保11年3月2日(1840年4月4日)。


…ところが、この時の在任は意外にも3年程で終わっており、大目付や朝鮮通信使を経て弘化2年3月15日(新暦では1845年4月21日)に就任した南町奉行としてのキャリアの方が実は長い(7年)。


 

人物

 

史実上では小説やテレビで見られるような暴れっぷりこそ伝えられていないものの反骨気質の人ではあったようで、天保の改革の実施に際しては「町人達の分不相応の贅沢の禁止」「風俗取締り」といった一部の引き締め策を推進する一方で、

町人の生活や利益を極端に脅かす法令には反対、南町奉行の矢部定謙とのタッグで、推進派の老中水野忠邦や目付の鳥居耀蔵と対立する。

 


水野の進言を受けた鳥居が芝居小屋の廃止に乗り出した際、これに反対した景元は浅草猿若町への移転だけに留めた。

 

 

これに感謝した小屋関係者達は景元を賞賛する意味で、「遠山=正義、鳥居=悪逆」という構図の元に『遠山の金さん』ものを上演したのであった。



なお、Wikipediaでも記述されているように、トレードマークの刺青については絵柄や範囲について諸説あるのだが、見た目や職業柄を考慮し桜吹

概要

寛政5年8月23日(新暦では1793年9月27日)、後の長崎奉行・遠山景晋と、榊原忠寛の娘(名は不明)の間に生まれる。幼名は通之進。

代名詞でもある北町奉行に就任したのは四十路に突入後の天保11年3月2日(1840年4月4日)。

 


…ところが、この時の在任は意外にも3年程で終わっており、大目付や朝鮮通信使を経て弘化2年3月15日(新暦では1845年4月21日)に就任した南町奉行としてのキャリアの方が実は長い(7年)。


 

人物

史実上では小説やテレビで見られるような暴れっぷりこそ伝えられていないものの反骨気質の人ではあったようで、天保の改革の実施に際しては「町人達の分不相応の贅沢の禁止」「風俗取締り」といった一部の引き締め策を推進する一方で、町人の生活や利益を極端に脅かす法令には反対、南町奉行の矢部定謙とのタッグで、推進派の老中水野忠邦や目付の鳥居耀蔵と対立する。

 


水野の進言を受けた鳥居が芝居小屋の廃止に乗り出した際、これに反対した景元は浅草猿若町への移転だけに留めた。これに感謝した小屋関係者達は景元を賞賛する意味で、「遠山=正義、鳥居=悪逆」という構図の元に『遠山の金さん』ものを上演したのであった。

 


なお、Wikipediaでも記述されているように、トレードマークの刺青については絵柄や範囲について諸説あるのだが、見た目や職業柄を考慮し桜吹雪に落ち着いた模様。
 

呼称について

 

一般的に知られる名「金四郎」は実は景元個人を表すものではなく、遠山家の家督継承者が代々名乗る通称である。景元は主に青年期に名乗っており、物語の主人公として活躍する頃にはそれほど使用していなかったとも。

 


またもう一つ、お白洲への登場シーンでの呼ばれ方として「遠山左衛門尉(さえもんのじょう)」というものあるが、こちらは官職名でありやはり特定の個人を示す名ではない。

 

 

雪に落ち着いた模様。

 

 

呼称について

 

 

一般的に知られる名「金四郎」は実は景元個人を表すものではなく、遠山家の家督継承者が代々名乗る通称である。景元は主に青年期に名乗っており、物語の主人公として活躍する頃にはそれほど使用していなかった、とも。

 


またもう一つ、お白洲への登場シーンでの呼ばれ方として「遠山左衛門尉(さえもんのじょう)」というものあるが、こちらは官職名でありやはり特定の個人を示す名ではない。

 

 

因みに桜吹雪の刺青という記述はなく、生首の刺青だったという。

 

 

 

↓↓ 遠山の金さんのお墓

 


 

「アンネの日記」のアンネ・フランク・・・

  • 2019.03.01 Friday
  • 15:56

みなさんこんにちは^^

 

今日あった出来事ですが、

 

 

「アンネの日記」のアンネ・フランク、収容所で病死。享年16歳(1945)

 


翌年生き残った父親により隠れ家での生活を綴った日記が刊行される。

 

第二次世界大戦の時オランダに住んでいたユダヤ人の一家で

 


隠れ家に隠れていて、


ナチスに見つかって殺された方です。


戦後生き残った父親が日記を改竄して発表すると世界各国で翻訳されてベストセラーに


なりました。


阿川佐和子みたいな感じの人です。


まだ10代で亡くなりました。

 

 

また、パンフレットにも地図にも載っていないという、アンネとその姉、ゴルドーのお墓が見つかった写真が

 

ありましたので、張っておきます。

 

ありました。アンネと姉マルゴットのお墓です。<br /><br />アンネは1944年8月に隠れ家でつかまり、母や姉とともにアウシュビッツへ送られました。しかし、ドイツ軍の前線後退にともなって、同年10月末、姉とともに後方のベルゲン・ベルゼンへ送り戻されました。男性専用キャンプだったベルゲン・ベルゼンには女性用施設がなく、女たちはベッドもないテント小屋で地面に直接寝ることを強いられたそうです。北ドイツの寒さを知るわたしとしては、聞いただけで骨の芯からガクガク震えが来そうなエピソードです。マルゴットとアンネがチフスにかかってこの世を去ったのは1945年2月〜3月。お墓はありますが、もちろん、遺体は見つかっていません。

 

 

 

参考文献:https://4travel.jp/travelogue/10732811

 

 

 

千家流茶の湯の開祖・千利休・・・・

  • 2019.02.28 Thursday
  • 09:20

千利休とは

 

 

商家の跡取りとして教養を身に付けるために茶の道に入った千利休。

 

 

茶の湯に「侘び」を求めた武野紹鴎(たけのじょうおう)に師事し、師の教えをさらに進めて侘び茶を大成させた人物です。

 

 

今井宗久(そうきゅう)、津田宗及(そうぎゅう)とともに茶頭(さどう/茶の湯の師匠)として信長に仕え、信長の死後は豊臣秀吉に仕えました。

 

 

北野大茶湯(おおちゃのゆ)を総合演出したのも利休でした。

 

 

※北野大茶湯
秀吉が身分に関係なく参加を許した北野天満宮での史上最大の茶会

 

 

秀吉に相反する利休

秀吉が愛したのは「黄金の茶室」。

 

 

利休が理想とするのは素朴な草庵。

 

 

「政治の道具」・「権力の象徴」に利用する秀吉と、「簡素な芸術」としての茶の湯を求める利休とでは相容れなくなっていきます。

 

 

 

また、秀吉は貿易の利益独占のために、利休の出身地である堺に重税などの負担をかけてしまいます。

 

 

 

この出来事で、堺の権益を守りたい利休は秀吉に嫌気がさしてしまいます。

 

 

さらに1590年。

 

 

利休の愛弟子・山上宗二が秀吉に無残にも処刑されるショッキングな事件もありました。

 

 

二人の対立は深まっていきました。

 

千利休切腹命令へ

 

 

1591年2月23日。

 

 

利休は秀吉に堺での謹慎を命じられます。

 

 

原因は、利休が京都大徳寺の桜門を彼の私費で修復し、そのお礼に寺が門の上に利休像を置いたこと。

 

 

 

秀吉がくぐる大徳寺の山門の上から雪駄履きの利休の木像が見下ろすとは無礼極まりないというのが理由でした。

 

 

 

ただ、この理由は利休を陥れるこじつけかもしれません。

 

 

 

利休には、秀吉にうとまれる理由がいくつもあったのです。

 

 

 

・安価の茶器類を茶人の立場を利用して高額で売り渡した

 


・天皇陵の石を勝手に持ち出し手水鉢(ちょうずばち)や庭石などに使った

 


・利休の娘を妻にと願う秀吉に「娘のおかげで出世していると思われたくない」と拒否した

 


・高麗文化を尊び、秀吉の朝鮮出征に反対した

 

 

しかも、利休蟄居命令のひと月前には、利休を重用し、温厚・高潔な人柄で人望を集めていた秀吉の弟・秀長が病没しており、利休は最大の後ろ盾をなくしていました。

 

 

千利休の切腹

 

 

一説には、秀吉は利休が謝罪さえすれば死罪にするつもりはなかったといいます。

 

 

しかし、利休は謝罪に応じず、死罪を受け入れました。

 

 

 

前田利家や古田織部、細川忠興ら大名である利休の弟子たちによる助命運動もかないませんでした。

 

 

 

京都に呼び戻された利休は、利休の首を持って帰るための秀吉の使者に最後の茶をたて、聚楽屋敷内で切腹したのです。

 

 

 

死後、首は一条戻橋で罪の一因ともされる大徳寺桜門の利休像に踏まれるような形でさらされました。

(享年70)

 

利休の切腹の際、上杉景勝の軍勢が厳重に屋敷を取り囲みました。

 

 

 

利休の弟子である大名たちが、利休奪還を図る恐れがあったからです。

 

 

 

つまり、彼の影響力は大名を動かすほど大きかったということ。

 

 

だからこそ、千利休の最期は茶人の立場を超え、一人の武将のように切腹させられたのでしょう。

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