ナポレオンが・・・広島平和霊園 2月26日

  • 2019.02.26 Tuesday
  • 09:09

みなさんおはようございます。

 

今日は2月26日(火曜日)

 

さて、今日は何の日ですが、今日あった出来事は、

 

1815年2月26日、ナポレオンがエルバ島を脱出しました。

 

 

中学か高校の英語の時間等に Able was I ere I saw Elba. という『回文』 (右から読んでも左から読んでも同じになる文章)を聞いたことのある人は 多いのではないかと思います。

 

 

ere は boforeの意味でナポレオンのことを言 った文章です。

 

 

 

ナポレオンはコルシカ島の出身。フランスの士官学校を出て若い頃から戦術 の天才として注目されていました。

 

 

イタリア遠征の成功で名を挙げ、その後 エジプト遠征でトルコを破り、この時『ロゼッタ石』を発見します。

 

 

 

1799年 ブリュメールの反動で頭領となって軍事政権を樹立。

 

 

その後終身頭領、やが て皇帝となってヨーロッパの大半を支配下に置く大帝国を築きました。

 

 

 

しかし1812年冬のロシアで惨憺たる戦績となったのを境に運勢が降下。

 

 

 

1814 年退位に追い込まれて、地中海のエルバ島に流されました。

 

 

 

フランスでは革 命で処刑されたルイ16世の弟ルイ18世が即位してフランス王国が復活します。

 

 

 

しかしルイ18世の復古的な政策は革命で自由を知った国民にはとうてい支持 できるものではありませんでした。

 

 

 

それを憂えたナポレオンは流されてから 10ヶ月後の今日、島から脱出。

 

 

 

パリに戻り国民の熱狂的な歓迎をうけました。

 

 

 

しかしこの時点でやはりナポレオンの運気は既に尽きていました。

 

 

政権復帰 してからわずか100日後、ワーテルローの戦いで敗戦。

 

 

今度はまず脱出不可能 な大西洋の孤島・セントヘレナに流され、そこで一生を終えました。

 

 

 

『わが辞書に不可能はない』という言葉が知られていますが実際は『辞書か ら不可能という単語を削除しろ』だったとも言われています。

 

 

 

ナポレオンの棺

 

↑↑少し見にくいですが、ナポレオンのお墓です。

 

このお墓がある場所はパリで、とても豪華なものとなっております。

 

 

 

旧円と新円の交換が始まる・・・広島平和霊園 2月25日

  • 2019.02.25 Monday
  • 10:18

みなさんおはようございます^^

 

 

今日は2月25日(月)

 

 

今日は、旧円と新円の交換が始まった日です。

 

第二次世界大戦の敗戦に伴い、物資不足に伴う物価高及び戦時中の金融統制の歯止めが外れたことから現金確保の為の預金引き出し集中の発生、

 

 

また一方で政府も軍発注物資の代金精算を強行して実施したことなどから、市中の金融流通量が膨れ上がり、ハイパーインフレーションが発生した対策が背景としてある。

 

 

 

この時同時に事実上の現金保有を制限させるため、発表翌日の17日より預金封鎖し、従来の紙幣(旧円)は強制的に銀行へ預金させる一方で、1946年3月3日付けで旧円の市場流通の差し止め、一世帯月の引き出し額を500円以内に制限させる等の金融制限策を実施した。

 

 

 

これらの措置には、インフレーション抑制(通貨供給量の制限)とともに、財産税法制定・施行のための、資産差し押さえ・資産把握の狙いもあった。

 

 

 

このとき従来の紙幣(旧円)の代わりに新しく発行されたのがA百円券をはじめとするA号券、いわゆる新円である。

 

 

 

インフレの抑制にある程度成果はあったものの、抑えきることはできなかった。

 

 

 

そのため市民が戦前に持っていた現金資産は、日本国債等債券同様にほぼ無価値になった。

混乱

証紙付旧円 (ろ百円券)

 

 

硬貨や小額紙幣は切替の対象外とされ、新円として扱われ効力を維持した。

 

 

 

そのため小銭が貯め込まれ小額決済に支障をきたした。

 

 

 

また市民は旧円が使えるうちに使おうとしたため、旧円使用期限までの間は、当局の狙いとは逆に消費が増大した。

 

 

 

占領軍軍人は所持する旧円を無制限で新円に交換することができた。

 

 

闇で日本人から旧円を割引相場で買い取って新円に引き換え利鞘を稼ごうとする軍人も現れ、発覚した者については処罰されている。

 

 

 

十分な新円紙幣を日本政府が用意できないため、占領軍軍人への新円支払いにはB円軍票が用いられた。

 

 

 

また新円紙幣の印刷が間に合わないため、回収した旧円紙幣に証紙を貼り新円として流通させた。

 

 

この際に証紙そのものが闇市で出回っていたという証言がある。証紙付き紙幣は後に新紙幣との引換えが行われた後に廃止され無効となった。

 

明治政府がキリスト教を解禁した日?広島平和霊園 2月24日

  • 2019.02.24 Sunday
  • 09:16

みなさんおはようございます^^

 

 

 

今日は2月24日(日曜日)です!

 

 

 

今日も少しばかり暖かいので、花粉症の人は、マスクして、薬と目薬を常備しないといけないですね。。。

 

まぁわたしは花粉症ではないんですが・・・笑

 

 

 

さて、そんな今日ですが

 

 

今日は明治政府、キリスト教を解禁(1873)の日なのですが、

 

 

この解禁したと断言できる資料がないといわれています。

 

 

 

あくまでも噂ですが・・・

 

 

 

明治になっても、日本ではキリスト教は厳しく禁止されていた。

 

 

 

明治政府も切支丹を敵視していた。

 

 

 

開国して米英仏露などの異人が日本にやってきて、また宣教師も続々と入国してきた。

 

 

 

徳川政府はもちろん、それを倒した薩長による維新政府も「切支丹は堅く御制禁」であった。

 

 

 

 

徳川政府が倒れ明治になるとキリスト教は自由に信仰できた、という印象を持たれることがあるが、そんなことはいっさいない。

 

 

 

見ようによっては、明治以降のほうが、より厳しくキリスト教は禁じられていたとも言える。

 

 

 

開国以降の日本のクリスマスを細かく見ていくためには、開国以降、とくに猝声4の日本のキリスト教状況瓩鮓ておかないといけない。

 

 

そうしないと、クリスマスが誰に向けてどこで開かれていたか、わかりにくくなる。

 

 

 

 

〔PHOTO〕iStock

 

1853年にペリー提督がやってきて、威圧的に日本を開国させた。

 

 

 

もとより犧森餃瓩箸い状態は、日本国内にキリスト教徒をおかず、キリスト教徒である外国人を日本人と触れさせない、ということを目的に遂行された政策である。

 

 

 

無理やり開国させられたとしても、その政策が守られれば、徳川政府としては何とか一線を守れることになる。

 

 

 

開国しても日本人を切支丹にしない、そこが大事なのだ。

 

 

 

徳川政府はそういう方針を採った。

 

 

 

異人のキリスト教徒がやってきて、自分たちだけのために教会を建て、自分たちだけでその宗教を祀っているのはかまわない。

 

 

 

 

ただ、ぜったいに日本の宗教に干渉しないよう、取り決めている。

 

 

 

 

キリスト教徒たる外国人が住むエリアを指定し、日本人と自由に接触しないように計らった。

 

 

 

 

居留地である。

 

 

 

 

関東では、横浜港に大きな居留地を作り(それまで何もなかった寒村であった)、東京の築地にも居留地エリアを作った。

 

 

 

 

あとは、大阪、神戸、函館、長崎に限定して住まわせた。

 

 

 

 

国内日本人に向けては、切支丹は御制禁、という施策は変わらない。

 

 

 

しかしキリスト教側は布教をもくろみ、宣教師がつぎつぎとやって来る。

 

 

 

長崎の浦上村の潜伏キリシタンが、大浦の教会にやってきて宣教師と接触し、その影響から仏式の葬式を拒否したことがあった。

 

 

 

 

当然、社会の安寧を乱すものとして、一挙に捕縛された。浦上四番崩れと呼ばれる事件である。

 

 

 

 

1867年の徳川政府最末期に起こった事件なので、最終処理は明治政府がおこなうことになった。

にゃんにゃんにゃん^^ 猫の日・・・・広島平和霊園 2月22日

  • 2019.02.22 Friday
  • 09:14

みなさんおはようございます^^

 

 

 

今日は2月22日金曜日です^^

 

 

 

世間的には猫の日?ですよね?笑

 

 

 

そんなわけで、今日は猫に関する記事を書きたいと思います^^

 

 

 

近年、“猫ブーム”が続き、多くのメディアで可愛い猫の特集が行われる。

 

 

 

特に2月22日の「猫の日」前後には、猫に関連するイベントの開催や商品が取り上げられ、2019年にはTwitterが「猫の日」キャンペーンを開催するなど、日本人の猫への注目度は高い。

 

 

 

 

そんな中、千葉県袖ケ浦市にある曹洞宗真光寺で、 写真家の亀井拓也さんによる猫の写真展「地域猫作品展」が開催されている。

 

 

 

何故、猫の写真展の会場にお寺を選んだのか。

 

 

 

その理由を亀井さん本人に聞くと、愛玩動物としてもてはやされる一方で、依然解消されない捨て猫問題へ一石を投じる意図があった。飼い主のいない”地域猫”が抱える問題とは。




■ 小さな命を大切にする「猫とお墓に入れるお寺」で写真展を


写真家の傍ら、飼い主のいない猫を管理し減らすことを目的とした地域猫活動を行っている亀井さん。

 

 

 

真光寺を知ったのは、個展を訪れたライターとの会話からだという。



「昨年(2018年)、私の個展にいつも応援いただいているライターさんが来てくださった際、『千葉県に猫とお墓に入れる珍しいお寺がある』というお話を聞きました。

 

 

お寺の皆さんは小さな命に対してとてもお優しいとも聞き、昨年11月、真光寺様にお伺いしました」


墓石の代わりに樹木を墓標とする樹木葬を行っている真光寺。

 

 

 

この寺では人間だけでなく、人生の伴侶としてペットの埋葬も受け付けており、動物と暮らす人たちの中で話題となったこともある。

 


真光寺を訪れた亀井さんは、事務局スタッフへ自身の取り組みや活動を紹介した際、伽藍での作品展示の提案を受け、今回の開催実現に至った。

 



■ 猫ブームに感じた“違和感”、その裏にある”捨て猫”問題

関東を中心に、東北地方や南は八重山諸島まで取材のため足を運び、地域猫を撮影しているという亀井さん。

 

 

 

そんな亀井さんが地域猫活動をはじめるきっかけとなったのは、一匹の飼い主のいない猫との出会いだ。

 

 


「5年ほど前、冬が近づく埼玉県のとある公園で、ベンチに座っていた私の膝に猫が乗ってきました。

 

 

 

その当時はまだ地域猫という言葉も耳カット(不妊去勢済みのしるし)の意味さえも知りませんでした。

 

 

その子は寒さに身を縮め、私が立ち上がろうとすると、行かないでほしいと言わんばかりに爪を立てるのです。

 



ちょうどその頃、世間では猫ブームが加速し始めたタイミングでした。

 

 

 

そのブームと、目の前の光景とのギャップになんともいえぬ違和感を覚え、猫のためになにかできることはないかと考えたことが活動のきっかけです」



「かわいい」「いやされる」ともてはやされる一方で、過酷な環境の中を生きる野良猫や捨て猫が見過ごされていることに気づいた亀井さんは、現在では地域猫の撮影の傍ら、ボランティア活動や地域・行政への取材も継続的に行っているという。

 



■ 捨て猫80匹の公園が「猫の聖地」と呼ばれ…地域猫問題のジレンマ

 



今回の地域猫写真展では、飼い主のいない猫の四季折々の姿を写した作品約20点が展示されている。そのうちの約半数ほどは、千葉県内で撮影されたものだ。

 

 


昨今、捨て猫の絶えない公園は各地に数多くある。

 

 

 

そのような中、撮影地の詳細については普段から積極的に公言することはないという。

 

 

 

「“あそこに捨てれば世話をしてもらえるのでは”と考えた者たちが、新たに猫を遺棄することに繋がりかねない」という懸念からだ。

 


千葉県内では、飼い主のいない猫が80匹以上暮らす公園もある。

 

 

そうした公園では、現在も多くの遺棄が発生し続けているなど、現場の事態は深刻だ。SNSやブログでは有志が「#僕らの居場所は言わにゃいで」のハッシュタグを使い、猫の撮影場所を公開しないよう呼びかけも行われている一方、飼い主のいない猫の多い場所を“猫の聖地”として取り上げる人も少なくない。

 

 

 

地域猫活動には、情報発信が事態を悪化させるかもしれないというジレンマがつきまとっている。

 

 



■ 「猫」はかわいい、でもそれだけじゃない

 



猫をはじめ、伴侶動物と呼ばれる生きものたちが、その容姿や仕草で人間にいやしをもたらすことを否定はできない。

 

 

 

 

亀井さん自身、猫のかわいらしさにいやされることもあると話す。

 

 



「猫の写真やイベントで気分転換したり、パッと笑顔にさせてもらったりすることもあります。

 

 

 

それらも猫の魅力を描写するひとつの方向性ですし、そういった催しを特に否定をするつもりもないのです。

 

 

 

 

私の視点や表現するものとは相違している部分もあるかもしれませんが、いろいろな切り口や目線があってもいいのではと感じています」

 

 

 



「かわいい」の裏側にあるものへの問いかけのようだ。

 

 


引用文献: 東京ウォーカー(全国版)・国分洋平)

 

 

 

源氏と平氏が屋島で戦う。

  • 2019.02.19 Tuesday
  • 09:24

みなさんおはようございます^^

 

 

今日はあいにくの雨で、人が少なく寂しい今日この頃です↓↓

 

 

さて、「今日は何の日」ですが

 

 

 

今日あった出来事は、源氏と平氏が屋島で戦う。平氏敗北(1185)

 

 

 

歴史をひもといてみると、時として軍事の天才に出くわします。

 

 

 

ナポレオンや豊臣秀吉などは、文句なくそうでしょう。

 

 

 

では平安時代、源平合戦でめざましい活躍を見せた源九郎義経は、はたして軍事の天才だったのでしょうか。

 

 

 

源義経像
(中尊寺蔵)

 

 

大活躍が不信を招く結果になった一ノ谷

 

 

 

一ノ谷の戦いが行われた摂津国福原および須磨(兵庫県神戸市中央区および須磨区)。
須磨浦公園にある「戦の濱」の碑。

 

「鵯越の逆落とし」とも言われる、義経の奇襲。
(『源平合戦図屏風』より)

 

 

結果として、平家軍は範頼・景時らの鎌倉軍主力と戦っている最中に、山を下ってきた義経勢に背後を襲われ、総崩れとなります。

 

 

 

平家方は、態勢を立て直して讃岐の屋島に陣を構えました。

 

 

昔から瀬戸内地方に勢力を築いてきた平家方は、水軍との縁も深く船いくさも得意でしたが、鎌倉方の武士たちのほとんどは、乗馬にはたくみでも船いくさの経験は乏しかったので、平家方は海からの攻撃ならはね返せる自信があったのです。

 

 

戦いの舞台となった屋島(香川県高松市)。
(写真提供:(公社)香川県観光協会)

屋島の戦いは、那須与一が扇の的を弓で射ったことでも知られる。
(『平家物語絵巻』より)

さすがに今度は、両軍が総力を挙げて正面からぶつかり合う形となりました。

 

 

しかし、義経はまたも奇策を用います。

 

 

敵の武士ではなく水主・梶取(かこ・かんどり)、つまり操船要員をまず射殺すよう命じたのです。

 

 

義経の策が当たって合戦は鎌倉方の勝利に終わり、平家一門はついに滅亡しました。

壇ノ浦の戦い。
(『安徳天皇縁起絵図』より)

 

平安時代の朝廷は、政治や軍事に関しては外国と関係を絶っていたので、国家として軍備を整えることをやめていました。

 

 

平将門藤原純友の叛乱のような事件はときどき起きましたが、国を挙げての戦争は基本的にはなかったのです。

 

 

そうした中から興ってきた武士たちは、自分の所領や利権を守るために武力を蓄えている人たちでした。

 

 

ところが、頼朝や木曽義仲が兵を挙げ平家打倒を目ざして戦うようになると、全国スケールの大戦争になります。

 

 

軍勢も万単位の数が動くことになりますが、そんな大軍を指揮して戦った経験など、誰にもありません。

 

 

少し詳しくいうと、軍事学では戦争全体に勝つための方策を戦略合戦に勝つための方策を戦術といいますが、源平合戦の時には、そのちがいをわかっている武士など、誰もいなかったということです。

 

 

 

ですから、味方をできるだけたくさんかき集めたら、あとはドカンとぶつけて決戦をするしか方法がありません

 

 

組織的な戦術などないのですから、合戦といっても個人戦があちこちで起きているだけなので、モノをいうのは個人の武勇や技量です。しかも、武士たちは恩賞目当てに参戦してきますから、恩賞がもらえるように手柄を立てようとします。

 

 

 

名のある敵を討ち取るとか、首をいくつ取ったか競うわけです。

 

 

海戦の場合だと、水主・梶取は戦闘要員ではありませんから、討ち取っても手柄にはならないのが普通です。おそらく、水主・梶取を先に射殺すという発想は、当時の武士たちにはなかったのでしょう。

 

 

このように見てきたとき、やはり義経は軍事の天才だった、と僕は思うのです。

 

 

個々の合戦に勝つための方策=戦術において、義経の発想は景時をはるかに超えていました。

 

 

義経は、戦術というものをはっきりと意識していたように見えます。

 

 

だとしたら義経には、戦術の反対側にある戦略も見えていたのではないでしょうか。

 

 

 

何万という軍勢を動員して、全国スケールでくり広げられる戦争は、たった一回の決戦ではカタがつかない。

 

 

 

だとしたら、戦術的な勝利を積み重ねて敵の力をそいだ上で最後の決戦を挑む。

 

幼くして鞍馬寺に預けられ、のちにそこを脱して奥州藤原氏の食客となった、という経歴の中で、一般の武士たちとはちがう素養を身につけていったのではないでしょうか。

 

 

軍記が「八艘飛び」や「弓流し」といったエピソードを伝えていることにも、興味をひかれます。

壇ノ浦(山口県下関市)にある、みもすそ川公園の
源義経像は八艘跳びを表現。

壇ノ浦の戦いで平家方の剛勇な武士から一騎打ちを挑まれた義経は、次々と隣の船に飛び移って逃げたというのが「八艘飛び」。

 


また、合戦中にうっかり海に弓を落とした義経は、慌てて拾おうとします。

 

近くにいた味方の武士が、「源氏の大将たるものが弓の一張くらい惜しんでどうするのですか、みっともないからおよしなさい」ととめるのですが、義経は「惜しいのではない、この弓が敵の手に渡って、義経が非力だと知られては困るのだ」といって、弓を拾ったというのが「弓流し」です。

 

 

どこまで本当かわかりませんが、これらのエピソードは義経が剛勇の武者ではなかったことを示しています。

 

 

当時は、すぐれた武士といえば、馬術にたけて強力な弓を引き、大きな太刀や薙刀を自在に振り回すような人を指していました。

 

 

戦略も戦術もない時代には、大力剛勇がそのまま戦闘力の高さとして評価されたのです。

 

 

しかし、普通の武士とちがう育ち方をした義経は、大力剛勇の持ち主ではありませんでした。

 

 

その代わり、普通の武士とはちがう自由で合理的な発想を身につけていたのではないでしょうか。どうもそのあたりに、義経が軍事の天才となった秘密がありそうですね。

 

 

歌劇「蝶々夫人」・・・

  • 2019.02.17 Sunday
  • 09:03

みなさんおはようございます^^

 

 

 

今日は車の鍵がどっかにいって、遅れるかと思ったら、猫がくわえてました今日この頃です笑

 

 

 

さて今日は何の日ですが、歌劇「蝶々夫人」初演

 

 

 

みなさんは蝶々夫人知っていますか??

 

 

 

 

蝶々夫人』(ちょうちょうふじん、Madama Butterfly, マダマ・バタフライ)とは、プッチーニによって作曲された2幕もののオペラである。

 

 

 

いわゆるプッチーニの「ご当地三部作」(あとの2作は「西部の娘」、「トゥーランドット」)の最初の作品である。

 

 

 

長崎を舞台に、没落藩士令嬢の蝶々さんとアメリカ海軍士官ピンカートンとの恋愛の悲劇を描く。

 

 

物語は、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアの弁護士ジョン・ルーサー・ロングが1898年にアメリカのセンチュリー・マガジン1月号に発表した短編小説(Madame Butterfly)」を原作にアメリカの劇作家デーヴィッド・ベラスコが制作した戯曲を歌劇台本化したものである。

 

 

 

1904年2月17日、ミラノのスカラ座で初演されたそれは大失敗だったが、同年5月28日ブレシアで上演された改訂版の成功以来、標準的なレパートリー作品となっている。

 

 

 

色彩的な管弦楽と旋律豊かな声楽部が調和した名作で、日本が舞台ということもあり、プッチーニの作品の中では特に日本人になじみ易い作品である。

 

 

 

特に第2幕のアリア「ある晴れた日に」は非常に有名である。

 

 

 

反面蝶々役の歌手にとっては終始出ずっぱり・歌のパートも長く多い(第二主役であるピンカートンの数倍に及ぶ)ため、また若く愛らしい娘の役であるにも拘らず、プッチーニのソプラノ諸役の中でも特にテッシトゥーラが低く、中低音域に重点を置いた歌唱が求められるため「ソプラノ殺し」の作品とも言われる。

 

 

 

 

 

 

プッチーニは24歳の若さで最初のオペラを書き上げてから、35歳の時書き上げた3作目の「マノン・レスコー」で一躍脚光を浴びた。 その後「ラ・ボエーム」(1896年)、「トスカ」(1900年)と次々と傑作を生み出した。

 

 

彼が「蝶々夫人」を書くのは、そんな音楽家として、正に脂の乗り切った時期であった。

 

 

「トスカ」を発表してから、次のオペラの題材をプッチーニは探していた。

 

 

 

1900年「トスカ」が英国で初演されるときプッチーニはロンドンに招かれた。

 

 

 

その時、デーヴィッド・ベラスコの戯曲「蝶々夫人」を観劇した。

 

 

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

 

 

英語で上演されていたため、詳しい内容はわからなかったが、プッチーニは感動し、次の作品の題材に「蝶々夫人」を選んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

水野忠邦・・・

  • 2019.02.16 Saturday
  • 09:09

みなさんおはようございます^^

 

 

 

今日は2月16日(土曜日)

 

 

 

今朝は特に特別なことはなかったです笑

 

 

 

さて、今日は何の日ですが、今日は・・・・

 

 

 

水野忠邦、没。58歳

 

 

 

みなさんは水野忠邦さんを知っていますか?

 

 

 

徳川吉宗享保の改革松平定信寛政の改革、そして水野忠邦の行った天保の改革

 

 

 

これらは江戸の三大改革と称され、試験などで必死に覚えた方もいらっしゃると思います。

 

 

 

どれも幕政を立て直すためのものでしたが、とくに天保の改革はあまりにも幕府本位だったため、2年あまりで失敗に終わってしまいました。

 

 

 

そんな不本意な結果を残した残念な?老中・水野忠邦とは、どんな人物だったのでしょうか?

 

 

出世のためなら家臣も泣かす!?

 

 

 

水野忠邦は、寛政6年(1794)、肥前唐津藩(現在の佐賀県唐津市)6万石の藩主、水野忠光の次男として生まれます。

 

 


そもそも水野家は、徳川家康の母於大の方の実家に連なる由緒正しい家柄。

 

 

 

そうした名門意識がはたらいたのか、忠邦は18歳で家督を相続すると、幕府の中心で出世することを熱望しました。

 

 

 

そこで、莫大な費用を使った猟官運動…といえば聞こえはいいですが、要するに多額の賄賂をばらまくことで、文化13年(1816)、奏者番の職をゲットします。

 

 

 

 

唐津藩の居城・唐津城。
(写真提供:佐賀県)

その後、忠邦はさらなる昇進を望みましたが、大きな障害があることに気がつきます。

 

 

忠邦が藩主を務めた唐津藩は、代々、長崎警備を任されてきましたが、その任務があるゆえに、唐津藩主は老中になれなかったのです。

 

 

そこで忠邦は、当時の幕府の実力者であった水野忠成に、あの手この手で猛烈アピールをくり広げると、“出世城”ともいわれた浜松藩(現在の静岡県浜松市)6万石への転封を願い出ます。

 

 

 

 

歴代城主の多くが幕府の重役に出世したことから「出世城」といわれた浜松城。
(写真提供:静岡県観光協会)

しかし、この転封に大反対したのが水野家の家臣たち。なぜなら、同じ表高6万石の領地への所替えとはいっても、唐津藩の実収は25万石あるのに対し、浜松藩は15万石

 

 

つまり、転封によって給料が大幅ダウンするわけですから、家臣たちが反対したのは当然でした。

 

 

 

家老の二本松義廉にいたっては、命がけでこれを諫め、実際にその命を絶っています。

 

 

老中となり、天保の改革を断行

 

家臣たちの諫言を押し切り、文化14年(1817)に浜松藩への転封を実現させた忠邦は、この時代の出世コースである大坂城代への就任を足がかりに昇進を重ねます。

 

 

35歳のとき将軍世子・徳川家慶の補佐役である西の丸老中に就任。天保5年(1834)には本丸老中に任ぜられると、天保10年(1839)、ついに老中首座へと昇りつめました。

 

 

 

12代将軍となる徳川家慶。

そして天保12年(1841)、大御所として幕府の実権を握っていた徳川家斉が亡くなると、将軍・家慶の厚い信任を受けた忠邦は、内憂外患の深刻な危機の打開をめざし、奢侈禁止・風俗粛正をモットーとした天保の改革を断行します。

 

 

 

ところが、「法令雨下」と呼ばれるほど多くの法令を定めた過激な改革は、うまくいきません。

 

 

 

農村復興のために人返し令、物価高騰を抑制するために株仲間の解散を命じますが、いずれも失敗。

 

 

 

 

物価にいたっては、粗悪な貨幣を濫造したことから、物価引下げとは相反する結果をもたらしました。

 

 

 

さらに、江戸・大坂近隣の領地を幕府領に編入する上知令に対し、大名・旗本が反発したことから、天保14年(1843)、忠邦は老中を罷免され、失脚します。

 

 

 

天保の改革をきっかけに有名になったのは?

 

 

「遠山の金さん」でおなじみの遠山景元。

ちなみに、天保の改革をきっかけに名を上げたのが幕臣、遠山景元通称・金四郎)。

 

 

 

当時、北町奉行を務めていた景元は、忠邦が命じた芝居小屋の廃止に反対し、浅草猿若町への小屋移転によりその存続を図ります。

 

 

 

株仲間の解散にも反対し、厳しい市中取り締まりに抵抗したことから、いったんは市政から外されてしまいますが、忠邦の失脚後、南町奉行として異例の復帰を果たしました。

 

 

大岡越前守に並ぶ名奉行として市井の評判を集めたことから、のちに景元の姿は「遠山の金さん」の名で浪曲・講談に脚色され、時代劇の主役としてその名を残すこととなります。

 

 

 

なお、失脚後の忠邦は、翌年、老中に再任されますが、将軍からの信任を得られず、わずか1年ほどで再辞職します。

 

 

 

その後は、在職中に受け取った賄賂を理由に、2万石減封のうえ隠居謹慎を命ぜられ、子の忠精も、出羽山形への所替えの処罰を受けるなど、まさに踏んだり蹴ったりでした。

 

 


家臣を犠牲に出世したツケが回ってきたのでしょうか。

 

 

 

もう少し身の丈にあった選択をしていれば、残念なことにはならなかったもかもしれません。

 

 

 

↓↓↓水野忠邦のお墓

 

 

水野越前守忠邦の墓

 

 

 

 

 

水野越前守忠邦の墓

 

 

 

初の人間国宝・・・広島平和霊園 2月15日

  • 2019.02.15 Friday
  • 09:03

みなさんおはようございます。

 

 

 

今日は2月15日《金曜日》

 

 

 

今日も寒しです・・・

 

 

さて、今日は何の日ですが、

 

 

今日は初の人間国宝指定です!

 

 

伝統芸能や工芸の第一人者30人が第1回の「人間国宝」(重要無形文化財)に指定された。

 

 

文化財保護法の改正によって無形文化財も指定できるようになった。

 

 

その功績を広く国民に知らせて伝統を守り、さらに発展させるのが狙い。

<当時の新聞紙面>

 

1955012807

 

 

引用文献:毎日新聞

 

 

人間国宝は、重要無形文化財保持者として各個認定された人物を指す通称である。

 

 

 

日本の文化財保護法において、無形文化財とは、演劇、音楽、工芸技術その他の無形の文化的所産で我が国にとつて歴史上又は芸術上価値の高いものをいう(同法第2条第1項第2号)。

 

 

 

すなわち、無形文化財とは芸能、工芸技術等の無形の「わざ」そのものを指すが、その「わざ」はこれを高度に体得している個人または団体が体現する。

 

 

 

そして、日本国政府はこのような「わざ」のうち重要なものを重要無形文化財に指定するとともに、その「わざ」を体現する個人または団体を保持者または保持団体に認定する(同法第71条第1項および第2項)。

 

 

 

 

文化財保護法の当初施行時(1950年)から、無形文化財に関する規定は存在したが、当初は国が保護策を講じなければ「衰亡の虞(おそれ)」のある無形文化財のみが保護の対象とされていた。

 

 

 

1954年、文化財保護法の第一次改正によって重要無形文化財の指定、および保持者の認定制度が同法に規定された。

 

 

 

 

この改正以前の旧法に基づいて選定されていた80余件の無形文化財及びその保持者についてはいったん白紙に戻され、重要無形文化財とその保持者は新たに指定・認定されることとなった。

 

 

 

改正法に基づく最初の重要無形文化財及び保持者(人間国宝)の指定・認定が行われたのは1955年2月15日である。

 

 

 

 

シャープ・・・・  広島平和霊園 2月12日

  • 2019.02.12 Tuesday
  • 09:30

みなさんおはようございます^^

 

 

 

今日は2月12日(火曜日)

 

 

 

今日は、少しばかり暖かいような気がします!

 

 

 

さて、そんな今日はこんな日です!

 

 

 

シャープ、液晶LSI使用の電卓「マイクロコンペット」発売。
10万円を切る(1970)

 

 

 

マイクロコンペット・・・?

 

 

 

シャープが開発したオールトランジスタの電子式卓上計算機です。

 

 

 

 

定価は53万円でしたが、市場では1割引で実質50万円を切 って販売されたそうです。

 

 

 

 

この頃は50万円を切ると会社での決裁が下りやすかったそうです。

 

 

 

 

この電卓は爆発的に売れ、今のシャープの電子事業の基礎を築きました。

 

 

 

 

もしこの時にシャープが電卓に進出しなかったら、ただの家電メーカーに終わり、会社の柱である液晶事業も育たなかったでしょう。

 

 

 


 

あの商品が・・・発売

  • 2019.02.11 Monday
  • 09:30

みなさんおはようございます^^

 

 

 

今日は2月11日(月)です!

 

 

今日もやはり寒く、早く春になってほしいですね・・・手がかじかんでなかなか打てません・・・

 

 

 

さて、そんな今日は何の日ですが、今日はトンボ鉛筆発売(1913)の日です!

 

 

 

みなさんはトンボ鉛筆知っていますか?私の記憶だと・・・オレンジぽいえんぴつに、消しゴムがセットになったやつですよね?笑

調べたところ緑でした笑

 

image1

 

株式会社トンボ鉛筆は日本大手の文房具メーカーです。
日本で使われている鉛筆の多くがトンボ鉛筆。

代表的なブランドのMONOは、製図用鉛筆のほかに消しゴムも大ロングセラーとなっています。

またボールペンやシャープペンシルといった筆記用具だけでなく、テープのりや多機能なペンなどの便利な新商品も続々登場し続けています。
image2

 

トンボ鉛筆は小川春之助商店として1913年に開業。

100年以上の歴史を持つ老舗ブランドなのです。

最初に商標登録されていたのは、社長のイニシャルから命名された「H.O.Pencil」で、1927年にはトンボ印を商標にした鉛筆の販売が始まりました。

現在のトンボ鉛筆株式会社という社名に移行したのは1964年。鉛筆にさまざまな芯硬度があることを広めながら品質の良い鉛筆を販売し、定評を得るようになりました。

image3

 

ところでトンボ鉛筆の英語ロゴは「TOMBOW」なのですが、トンボがTOMBOではなく最後にWの付いているのが不思議だと思ったことはありませんか。

実はTOMBという英単語が墓を意味するため、Wを付けて区別したのだというエピソードがあるのです。
また、トンボのロゴはもともと頭が下向きだったものが上向きに変わっています。
お客さんに対し頭を下げるという姿勢を意味していたものから、トップを目指すという思いをこめたデザインに変わったのです。

image4

 

 

 

「MONO」ブランドが登場したのは1963年。

ギリシャ語のMONOS(唯一の、無類の)から命名された最高級鉛筆のブランドです。

MONOといえばプラスチック消しゴムがおなじみですが、もともとはMONO100という鉛筆のサービス品として添えられていた商品でした。
あまりに消しやすいと好評だったため商品化され、現在ではさまざまなラインナップも展開されるロングセラー商品となっています。
参考文献:職人文化ニッポンの鉛筆ブランド「TOMBOW(トンボ)」の歴史

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